八月七日。
明日という日が、一年で最も特別な日になるはずの男、八波弾は、その日、人生最大級の憂鬱に沈んでいた。
場所は、彼らが働く部乱目町に拠点を置く、桐島組の事務所。西陽が差し込み、一日の仕事の終わりを告げる埃っぽい光が、事務所の中を漂っている。弾は、愛用の工具を手入れしながらも、その意識は、数メートル先で黙々とデスクの片付けをしている月野真夢の、その小さな背中に全て注がれていた。
(明日…俺の誕生日か…)
明日で、二十一歳になる。大人、というにはまだ青く、子供と笑うには、背負うものが増えすぎた。そんな、中途半端な年齢。だが、弾にとって、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、明日が誕生日であること、そして、その特別な日を、心の底から、隣にいてほしいと願う女が、すぐそこにいるという事実だけだった。
(…なんて、言えばいいんだよ…)
好きだ。狂おしいほどに。
その笑顔一つで、どんなに過酷な現場仕事の疲れも吹き飛ぶ。
その優しい声を聞くだけで、ささくれ立った心が凪いでいく。
だが、その想いの深さに比例して、言葉は喉の奥に張り付き、決して外には出てこない。
(明日、なんか予定あんのか?……いや、そんな聞き方じゃ、ねえな。もっと……)
一方の真夢も、心の中では、今日一日、この瞬間を待ちわびていた。
(弾くん、明日お誕生日……。おめでとうって、言いたいな。プレゼントも、こっそり用意してる。もし、もしも、弾くんが一人で過ごすなら、一緒に、お祝い、したいな……)
だが、彼女の思考は、すぐに不安の迷路に迷い込む。
(でも、私なんかが誘ったら、迷惑かな……?弾くん、人気者だし、きっともう、お友達と約束とか、してるよね……。私なんかが、割り込んじゃ、悪いよね……)
こと恋愛に関して、いや弾に関しては特に自分に自信が持てない彼女は、弾の不器用な優しさを、いつだって自分にとって都合の悪い方へと解釈してしまう癖があった。
「……あのさ」
「……あのね」
奇跡のように、二人の声が重なった。びくり、と互いに肩を震わせ、顔を見合わせる。そして、同時に俯いた。
「……なんでもねえ」
「……なんでもない」
また、声が重なる。気まずい沈黙。もどかしい空気。結局、二人は「お疲れ」とだけ言い残し、別々の方向へと帰路についた。
両片想いという、甘くもどかしい魔法にかかった二人は、今日もまた、互いの心をほんの少しだけ傷つけ、すれ違っていく。
その、あまりにも非効率で、じれったい光景を、物陰から冷徹に見つめる二つの影があった。
時空の歪みから弾き出されたかのように、現代の風景にそぐわない、異質なオーラを放つ二人の男。
一人は、この世のものとは思えぬほどの美貌を持ちながら、その瞳に一切の感情を映さない。ただ、目の前の光景を「情報」として処理し、分析しているかのような、冷徹な空気を纏っている。未来の弾と真夢の長女である縁(えん)の恋人、皇紀(こうき)だ。
もう一人は、そんな緊迫した状況を、まるで面白い芝居でも見るかのように、楽しげに口元を綻ばせている。飄々として、掴みどころがない。そのくせ、その佇まいには、全ての女性を魅了するような、甘い色気が滲んでいる。やはり未来の弾と真夢の次女である詩(うた)の夫、浄(じょう)である。
「……なるほどな。話には聞いていたが、これほどとは。親父殿も母殿も、若い頃は、驚くほどに不器用で、そして、愚かだ」
皇紀が、目の前の男女の骨格と肉質から、その精神構造の未熟さまでも見抜くかのように、静かに呟いた。
「おやおや、手厳しいねえ、皇紀。でも、確かに。見てるこっちの胸がキュンとしちゃうくらい、青くて甘酸っぱいじゃないか。……で、このままだと、俺の愛しい詩も、君の最愛である縁ちゃんも、この世に生まれてこない確率が急上昇中ってわけかい?」
浄の軽薄な口調にも、その瞳の奥には、確かな焦りの色が浮かんでいる。
「ああ。何らかの歴史の歪みで、この二人が結ばれるという事象の確定率が、著しく低下している。我々の任務は、この歴史の特異点を修正し、八月八日が来るまでに、この二人を物理的にも精神的にも結合させ、確定事象へと導くこと」
皇紀の言葉には、一切の無駄がない。それは、ラウンジ『ウィズダム』の厨房で、完璧なレシピを組み立てる時のように、冷徹で、正確無比だった。
「なるほどね。つまり、未来の可愛い娘たちのために、このじれったいパパとママの恋のキューピッドになる、と。…上等じゃないか!愛の伝道師である、この俺に任せておくれよ!」
浄は、パチン、と指を鳴らし、自信満々の笑みを浮かべた。
「……お前のやり方では、事態を悪化させるだけな気もするがな。まあいい。まずは、お前の手腕、見せてもらおうか」
皇紀は、そう吐き捨てると、闇に溶けるように、その場から姿を消した。
かくして、未来の娘たち(と、その恋人達)の運命を背負った、二人の特使による「だんまく、くっつけ大作戦」の幕が、静かに、そして波乱含みのうちに、上がったのである。
◇
まず動いたのは、無論、浄だった。
「愛の成就は、まず外堀から埋めるのがセオリーさ」
彼は、得意のドリンクを作るかのように、繊細かつ大胆な計画を練っていた。
ターゲットは、月野真夢。彼女の心を解きほぐし、弾への想いに自信を持たせ、そして、そっと背中を押してやる。
それが、彼の描いたシナリオだった。
帰り道、一人でとぼとぼと、先ほどの弾とのやり取りを思い出しては、小さくため息をつく真夢。その前に、浄は、まるで運命の出会いを装って、現れた。
「やあ、こんばんは、美しいレディ。もしや、何か悩み事かい?君のその花のような可憐な微笑みが、憂いで曇っているのは、この世界の大きな損失だ」
「えっ、あ、あの…どちら様、ですか…?」
突然現れた、モデルか俳優のような美貌を持つ紳士に、真夢は完全に戸惑っていた。その甘く、蕩けるような声と、自信に満ちた佇まいは、黒木組、鬼頭組、桐島組という曲者揃いの人種が集まった会社を渡り歩いた彼女でも、今まで出会ったことのないタイプの人種だ。
(な、なんなんだろう、この人…!?すごく綺麗だけど、なんだか、ちょっと怖いかも…)
真夢は、警戒心を解かない。彼女の心が、弾以外の男で動くことはない。他の男が入り込む隙間など、一ミリも存在しないのだ。
浄は、そんな彼女の鉄壁のガードを、その鋭い観察眼で見抜きながらも、あえて気づかないふりをして、芝居を続けた。
「僕かい?僕は、浄。君の瞳に乾杯し、君の未来に幸あれと願う、ただの一人の紳士さ。…どうやら、心に決めた人がいるようだね。その一途な眼差し、とても素敵だ」
「えっ!?」
心の中を見透かされたような言葉に、真夢は息を呑む。浄は、そんな彼女の反応を楽しみながら、優雅に微笑んだ。
その光景を、数十メートル離れた電柱の影から、弾の鋭い視線が、射抜いていた。
やっぱり何とか誘えないものか、諦めきれず真夢の後を追ってきたのだ。
(何なんだ、あのヘラヘラしたチャラ眼鏡は……真夢の奴、困ってんじゃねえか!)
弾の目に映る真夢は、明らかに戸惑い、警戒していた。弾の心に、黒い嫉妬の炎と共に、猛烈な保護欲が燃え上がる。
(あいつ、真夢に気安く触ろうとしやがって……次、真夢に近づいたら……!)
ギリ、と拳を握りしめ、今にも飛び出していきそうな衝動に駆られる。だが、足が動かない。
(……いや待て。俺が今、飛び出していって、どうなる?真夢は、きっと驚く。俺なんかがしゃしゃり出て、かえって話をややこしくしたら、真夢に迷惑がかかるかもしれねえ。クソッ……!)
真夢を想うが故の、もどかしい自己抑制。弾は、ただ、その場から動けずにいた。ただ、その瞳は、縄張りを荒らす不埒な輩を睨みつける、獰猛な獣のように、浄という存在を、強く、強く、敵意を込めて睨みつけていた。
結局、真夢は浄を何とか振り切り、弾も浄を睨みつけるようにして、真夢を護衛するかのようにして、その後に着いて行った。
◇
「……フン。だから言わんこっちゃない。親父殿の嫉妬心を煽るだけだ。埒があかない。効率が悪い」
浄の背後に、皇紀が音もなく現れた。その声は、氷のように冷たい。
「おや、それは心外だな。愛する女性を守りたいという、彼の騎士道精神を刺激してやったつもりだったんだけどねぇ。まあ、少しばかり劇薬すぎたかな?」
軽口を叩く浄を一瞥すると、皇紀は、その分析能力をフル回転させる。
(八波弾。性格、明るく、直情的、猪突猛進。恋愛において、対象への執着は極めて強いが、自己評価の低さが行動を阻害している。単純な揺さぶりは逆効果。必要なのは、外部からの強制的かつ絶対的な、方向性の提示)
「……俺がやる」
「え?」
皇紀は、浄の言葉を待たずに、闇に溶けるように、弾が向かった方向へと進んだ。その足取りには、一切の迷いがない。まるで、逸れた獲物を追い詰める、孤高の狩人のようだった。
真夢が無事帰宅するのを見届けた後、一人、公園のベンチに座り込み、頭を抱える弾。
(クソッ…!クソクソクソッ…!)
先ほどの光景が、何度も脳裏をよぎる。真夢の、困ったような顔。そして、あのキザ野郎の、自信に満ちた笑顔。自分には、決してすることのできない表情だ。その事実が、弾の胸をナイフのように抉る。
だが、弱音を吐いている暇はなかった。
目の前に、すっ、と影が落ちた。
「うおっ!?」
弾が顔を上げると、そこに、先ほどとは別の、人間離れした美貌を持つ男が、仁王立ちで立っていた。月明かりに照らされたその顔は、まるで天使のように整っているのに、その瞳は、全てを見透かすような、底知れない光を宿していた。
「て、てめえ、誰だ……!?」
弾は、咄嗟に立ち上がり、拳を握りしめて身構える。
だが、皇紀は、そんな弾の威嚇など意にも介さなかった。彼は、一歩、また一歩と、無言で弾に近づき、その細い腕からは想像もつかないほどの力で、弾の胸ぐらを鷲掴みにし、公園のフェンスに叩きつけた。
「ぐっ……!てめえ、いきなり何しやがる!離せ!」
弾が必死に抵抗するが、皇紀の腕は、鉄のように硬く、腕力のある弾の力にもびくともしない。
「単刀直入に言う」
皇紀の声は、低く、静かだった。だが、その静けさこそが、彼の内なる狂気を物語っていた。
「今日のうちに、明日、月野真夢をデートに誘え。これは決定事項だ。拒否権はない」
「はあ!?真夢だと……?何でてめえが、真夢の名前を知ってやがるんだ!」
弾の瞳に、怒りの炎が燃え盛る。恐怖心など湧くはずもなく、あるのは、自分の聖域を土足で踏み荒らされたことへの、純粋な怒りだけだ。
「……っ!!お前も、さっきの奴の仲間か何かか!?お前も、あのチャラ眼鏡と一緒で、真夢を狙ってんのか!ふざけんじゃねえぞ!俺は、お前らみたいな得体の知れねえ奴らに、真夢を渡す気は、これっぽっちもねえんだよ!」
弾は、全力で皇紀を睨みつけた。諦めるものか。たとえ、どんなにヤバい相手だろうと、真夢への気持ちだけは、絶対に譲れない。
その、弾の瞳の奥に宿る、決して消えない炎を、皇紀は見逃さなかった。
(……やはり、母殿が絡むとこれか。なるほど、これが親父殿の根源か)
皇紀は、ほんの少しだけ、口の端を吊り上げた。それは、嘲笑ではない。獲物に対する、狩人としての、かすかな敬意にも似た表情だった。
「……お前がどう思おうと、関係ない。これは、お前だけのためではない。未来のためだ。実行しろ」
「未来だと?何言ってやがる、てめえ……!」
「問答は無用だ。さもなくば……」
皇紀の瞳が、ゾッとするほど、冷たく光る。
「……お前のその骨格、なかなかいい肉質をしているな。だが、俺の言うことを聞かねえというのなら、二度と使い物にならねえように、綺麗に解体してやろうか?」
「なっ……!?」
「このままだと、解体された方がマシな未来が待っている。お前も、真夢もだ」
その狂気的な言葉と、本気で言っていると分かる瞳に、弾の背筋を、冷たい汗が伝った。こいつ、ヤバい。本当に、ヤバい。
皇紀は、呆然とする弾を、ゴミでも見るかのようにフェンスから突き放すと、何も言わずに、再び夜の闇へと、音もなく消えていった。
残されたのは、弾一人。
訳の分からない、キザなチャラ眼鏡。そして、狂気を宿した、絶世の美形。そのどちらもが、真夢の名を知っていた。
「……一体、どうなってやがるんだ……」
弾の頭は、混乱の極みにあった。だが、その混乱と、残された恐怖の中心で、一つの想いだけが、より強く、より熱く、燃え上がっていた。
(誰にも、渡さねえ。真夢は、俺が守る……!)
彼の不器用な恋心は、未来からの使者たちの、荒療治とも言える介入によって、図らずも、新たな覚悟を宿し始めていた。
◇
夜の闇に再び姿を消した皇紀と、その一部始終を遠巻きに眺めていた浄は、近くのビルの屋上で合流していた。眼下には、宝石のようにきらめく部乱目町の夜景が広がっている。しかし、そんな美しい風景も、今の二人にとっては、作戦を練るためのただの背景でしかなかった。
「……おやおや、皇紀。君のやり方は、俺のよりもずいぶんと手荒だったみたいだねえ。彼の骨格を解体する、だなんて。いくらなんでも、未来のお義父様に対して言うことじゃないだろう?」
浄が、やれやれと肩をすくめる。その表情は、いつものように飄々としているが、声には僅かな呆れの色が混じっていた。
「……フン。お前の甘ったるいやり方で、親父殿の嫉妬心を煽った結果がこれだ。事態は膠着し、むしろ悪化している。感傷に浸っている時間はない」
皇紀は、冷徹に事実を述べる。彼の脳内では、既に先ほどの弾と真夢の反応データが分析され、次の作戦計画が構築され始めていた。
「確かに、俺のジェントルなアプローチは、彼の野性的な嫉妬心に火をつけすぎちゃったかもしれないね。君の脅迫まがいのやり方も、彼を頑なにしただけだった。……つまり、僕たち二人が、それぞれ単独で動くのは、得策じゃないってことだ」
「ああ。奴らは、互いへの想いが強いが故に、外部からの刺激に対して、予測不能な防衛反応を示す。特に、八波弾の方は、月野真夢が絡むと、自己の安全を度外視した、極めて非合理的な行動に出る傾向が強い。……厄介な性質だ」
皇紀は、先ほどの弾の、恐怖を微塵にも感じず自分を睨み返してきた、あの瞳を思い出していた。それは、ただの虚勢ではない。自分のテリトリーと、その中で最も大切な存在を守ろうとする、雄の、根源的な強さ。その事実は、皇紀に、ほんの少しだけ、作戦の難易度を再認識させていた。
「だろ?だからさ、次は共同戦線と行こうじゃないか。俺のスマートな計画と、君の物理的な実行力。それを合わせれば、きっと……」
「……却下だ」
浄の提案を、皇紀は一言で切り捨てる。
「お前の計画は、回りくどすぎる。必要なのは、制御された環境下での、直接的な接触だ。外的要因を完全に排除し、二人の意識を、互いにのみ向けさせる」
「……というと?」
浄が、興味深そうに目を細める。皇紀は、その氷のような瞳で、眼下に見える桐島組の事務所を、静かに見据えた。
「……強制的に、二人きりの空間に隔離する」
「いわゆる、密室イベントってやつだね!いいねえ、古典的だが、燃えるじゃないか!……あれ?それにそれって、結局協力するってことだろ?」
「……うるせえ」
かくして、性格もやり方も正反対の二人は、未来の娘たちのために、初めて手を取り合うことを決めた。そのターゲットは、再び、あの不器用な恋人未満の、未来の義父母たちだった。
◇
「だから!俺は、なんでもねえって言ってんだろ!」
「でも、弾くん、顔色が……!さっきの公園の人に、何かされたんじゃ……」
「俺のことはいいんだよ!それより、お前こそ、あの胡散臭え眼鏡に何か変なこと言われてねえだろうな!?」
「私は、大丈夫だから……!」
桐島組の事務所前。弾と真夢は、あの後合流し、結局互いを心配するあまり、言い合いのような状態になっていた。その光景は、傍から見れば、ただの痴話喧嘩にしか見えない。だが、二人の間には、まだ、越えられない壁が存在していた。
その時だった。浄が、慌てた様子で二人の元へ駆け寄ってきた。
「大変だ、レディ!君に、一大事を伝えなければならない!」
「えっ!?あ、あなたは、さっきの…!」
真夢が警戒するのを、浄は巧みな話術でいなす。
「話は後だ!実は、この事務所の裏の古い資料室から、子猫の鳴き声が聞こえるんだ!どうやら、閉じ込められてしまったらしい!君のその優しい心で、助け出してはもらえないだろうか?」
「えっ、子猫が!?大変!」
「えっ!?おい、真夢!それなら俺が……!」
心優しい真夢は、浄の言葉を疑うこともなく、すぐに資料室の方へと駆け出していく。弾は、そんな真夢の背中を、慌てて追いかけた。
(あの野郎、まだいやがったのか…!だが、真夢が…!)
弾が、真夢に続いて資料室に飛び込むように入った、その瞬間だった。
背後で、資料室の扉が、ガチャン、と音を立てて閉まった。そして、外から、カチッ、と非情な鍵の音が響く。
「「えっ!?」」
弾も真夢も、驚いて扉の方を振り返る。
「おい!開けろ!てめえら、何しやがんだ!」
弾が、力任せに扉を殴りつけるが、資料室の扉は、びくともしない。
「な、何なの……?どうして……?」
「クソッッ!!ドヤされんの承知で蹴破っちまうか!?」
「ダメだよ!!弾くんが怪我しちゃう!!」
真夢は、真っ青な顔で、固く閉ざされた扉を見つめる。
扉の外では、皇紀と浄が、静かにその様子を伺っていた。
「……これでいい。あとは、内部で化学反応が起きるのを待つだけだ」
「やれやれ、少しばかり強引すぎやしないかい?まあ、俺の可愛い詩のためだ。少しの間、パパとママには試練を与えるとしよう」
未来からの使者たちは、その非情な作戦の成功を確信し、静かにその場を後にした。
◇
資料室の中は、古い資料や図面の匂いが充満していた。夜には心許ない照明が、ぼんやりと、積まれた資料の山を照らし出している。
「クソッ……!あの野郎ども、ふざけやがって……!」
弾は、しばらく扉を蹴りつけていたが、怪我をするからやめてくれと真夢に泣きつかれ、扉に舌打ちをすると、その場にどかりと座り込んだ。
「……ごめんね、弾くん。私、あの人の言うことを、すぐに信じちゃって……」
真夢が、泣きそうな声で謝る。弾は、そんな彼女の顔を見ることができず、そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「……お前は、悪くねえよ。アイツらが、お前の優しさに付け込んだだけだ」
その言葉に、真夢の心が、少しだけ温かくなる。
シン、と、再び沈黙が落ちる。狭い空間に、二人きり。互いの呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえた。気まずさで、どうにかなりそうだった。
だが、その沈黙を破ったのは、意外にも真夢の方だった。
「……弾くん」
「……なんだ」
「さっきの……メガネの人の後ろにチラッと見えた、すごく綺麗な顔した、怖い人……。あの人、公園で弾くんに詰め寄ってた人でしょ?何か、ひどいことされなかった……?」
真夢の声は、震えていた。彼女は、弾が皇紀に胸ぐらを掴まれていた光景を、遠くから見ていたのだ。
弾は、真夢が自分のことを心配してくれていたという事実に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
「……っ、俺のことは、いいんだよ。擦り傷一つ、つけられてねえ」
本当は、精神的にボロボロだったが、彼女の前で、そんな無様な姿は見せられない。
「それより、お前こそ……あの眼鏡野郎に、何か変なこと言われたり、されたりしてねえだろうな。俺、見てたぞ。あいつ、お前に馴れ馴れしく……」
「ううん、大丈夫!ちょっと、びっくりしただけだから。あの人も、公園の怖い人も、……なんか、悪い人じゃ、ないと思うんだけど……」
「悪い奴じゃねえかもしれねえが、ああいう男には、気をつけろ。お前は、すぐ人を信じすぎる」
「……弾くんこそ、すぐにカッとなるんだから、気をつけてよ。あんな怖い人と、喧嘩になったらどうするの……」
「俺は、お前が絡んでんなら、相手が誰だろうと引く気はねえよ」
「……!」
互いを、心配していた。その、当たり前のようで、しかし、二人にとっては奇跡のような事実に、ようやく気づく。
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
今日一日、どれだけ奇妙な出来事が続いたか。どれだけ、互いのことを案じていたか。
話しているうちに、二人の間の、見えない壁が、少しずつ、溶けていくのを感じた。
「……それにしても、何なんだろうね、あの人たち……」
「さあな。だが、どっちも、お前のことを知ってた。それが、気になんだよ」
「そうなの?でも、弾くんのことも知ってるみたいだったよね……」
弾は、資料の積まれた棚に、もたれかかる。真夢も、その隣に、ちょこんと座った。肩と肩が、触れ合うか触れないかの、絶妙な距離。
「……弾くん」
「……ん?」
「さっき、扉を蹴ってた時、すごく、かっこよかったよ」
「はあ?あんなの、ただがむしゃらだっただけだろ」
「ううん。私のために、必死になってくれてるんだなって、分かったから。…嬉しかった」
真夢は、少しだけ、頬を染めて微笑んだ。その笑顔に、弾の心臓が、大きく、ドクン、と鳴った。
狭い資料室。埃っぽい空気。だが、今の弾にとって、そこは、世界で一番、心地よい場所に感じられた。
真夢の頬に、資料の棚から落ちたのか、小さな埃がついているのに、弾は気づいた。
「……おい、ついてんぞ」
「え?」
弾は、ほとんど無意識のうちに、その大きな手を伸ばし、真夢の柔らかな頬に、そっと触れた。そして、親指で、優しく、その埃を拭ってやる。
びくり、と、真夢の体が震えた。弾の、大きくて、でも、温かい指先の感触。その感触が、彼女の全身に、甘い痺れのように広がっていく。
弾もまた、自分の指先に伝わる、真夢の肌の、信じられないほどの滑らかさに、息を呑んだ。
時間が、止まったかのようだった。
二人の視線が、絡み合う。
真夢の、潤んだ大きな瞳。弾の、不器用だけど、熱い想いを宿した瞳。
もう、言葉は、いらなかった。
「「あのさ…!明日の、誕生日なんだけど…!」」
まさに、二人の心が、今度こそ、本当に一つになろうとした、その瞬間だった。
ガチャン!!!
突然、背後の扉の鍵が、外れる音がした。そして、ゆっくりと、扉が開いていく。
「おやおや、どうだい?いい雰囲気になったかい?閉じ込めといて何だけど、こんな埃っぽいところにあまり長居すると、レディの体に障るからねえ」
扉の隙間から、浄が、にこやかな笑顔で顔を覗かせる。
「……心拍数、及び、フェロモンの分泌量の上昇を確認。作戦は、第二段階へと移行したと判断する」
その後ろでは、皇紀が、冷静に状況を分析していた。
その、あまりにも間の悪い「救出」に、弾と真夢は、弾かれたように、互いから飛びのいた。
顔は、二人とも、火が出るほど真っ赤だった。
最高のムードは、よりによって、それを望む未来からの使者たちによって、無残にも、粉々に打ち砕かれた。
「「~~~~~~~~~っっ!!」」
二人は、言葉にならない叫びを心の中で上げながら、顔も見合わせず、赤面のまま、資料室から駆け出していった。
残されたのは、作戦が成功したはずだと、少しだけ満足げな顔をする、二人の未来人だけだった。
時刻は、夜の十時を回ろうとしていた。八月八日まで、残り、二時間弱。
彼らの作戦は、果たして、成功と言えるのだろうか。
◇
資料室から弾かれたように飛び出し、真っ赤な顔のまま逃げるように帰路につく弾と真夢。その背後で、作戦が成功した(と、少なくとも彼らは思っている)未来からの使者たちは、静かに佇んでいた。
「やれやれ、じれったい二人だったけど、俺の演出にかかればこんなものさ。これで一安心だね」
浄が、満足げに髪をかきあげる。しかし、その隣で、皇紀は冷徹な分析を続けていた。
「……いや、まだだ」
「え?」
「心拍数、及び、フェロモンの分泌量は、確かに恋仲にある男女のそれに限りなく近づいた。だが、事象としての『結合』は、まだ確定していない。あの二人は、今の熱が冷めれば、また元の不器用な関係性に戻る可能性が高い」
「まさか!あんなにいい雰囲気だったじゃないか!」
「恋愛における親父殿の自己評価の低さと、母殿の過剰なまでの気遣い。その二つの要素が、最終的な障壁となっている。このままでは、ミッションの成功確率は、依然として70%にも満たない」
皇紀の言葉に、浄の顔から、初めて余裕の笑みが消えた。時刻は、夜の十時を回っている。八月八日まで、残り時間は、ほとんどない。
「……じゃあ、どうするんだい?もう一度、どこかに閉じ込めるかい?」
「無意味だ。同じ手は通用しない。……必要なのは、言い訳のしようのない、絶対的な状況設定。そして、彼らの背中を押す、最後の一押しだ」
皇紀の瞳が、静かに、しかし、恐ろしいほどの決意を宿して、きらめいた。
「……お前のその、回りくどいが、人の心を動かすことだけは得意な能力と、俺の、物理的な障害を排除する能力。それを、もう一度だけ、組み合わせる」
「……つまり?」
「最高の『舞台』を、お前が用意しろ。その舞台に、役者を揃え、邪魔者を排除するのは、俺がやる」
それは、二人が初めて、互いの能力を認め合い、完全に一つの目的のために協力する、最後の作戦計画だった。
◇
「……はぁ……はぁ……」
夢中で真夢を安全な所まで送って行き、転がるようにそのまま自宅アパートまで戻って来た弾。ドアに背中を預け、弾は、その場にずるずると座り込んだ。心臓が、まだ、うるさいくらいに鳴り響いている。
(クソッ……!何なんだよ、今日は……!)
あの資料室での、真夢との距離。彼女の、潤んだ瞳。柔らかな頬の感触。そして、最後に聞こえた、彼女の、か細い声。
(俺、あの時、何を言おうとしたんだ……?いや、分かってる。言いたかったことなんか、一つしかねえじゃねえか……!)
「明日、俺と……」その先が、言えなかった。あと一言が、どうしても。
自分の不甲斐なさに、弾は、ゴン、と壁に頭を打ち付ける。
同じ頃、真夢もまた、自室のベッドに倒れ込み、顔を枕にうずめていた。
(どうしよう……どうしよう……!)
顔が、熱い。弾くんの、あの真剣な顔。私の頬に触れた、大きくて、でも綺麗な、優しい手。彼の、力強い呼吸。
(私、あの時、弾くんに、何を言おうとしてたの……?ううん、本当は、分かってる……)
「好きです」と、伝えたかった。いつも、「俺もだぜ!」と笑って返されてしまう、好きの本当の意味を伝えたかった。明日のお誕生日を、二人きりでお祝いしたいと、言いたかった。
でも、言えなかった。あの、不思議な二人が現れて、全てが、めちゃくちゃになってしまった。
(でも……あのままだったら、私、言えたのかな……?)
分からない。分からないけど、ただ一つだけ確かなことがある。
(……弾くんに、会いたい……)
その、二つの、同じ想いが、それぞれの部屋で、夜の静寂に溶けていく。
コンコン。
突然、弾のアパートのドアが、控えめにノックされた。
「……んだよ、こんな時間に……」
弾が、不審に思いながらドアを開けると、そこには誰もいない。ただ、足元に、一枚の、無地のメモが落ちているだけだった。
拾い上げると、そこには、まるで印刷されたかのような、無機質で美しい文字が並んでいた。
『月野真夢が、丘の展望台で待っている。今行かなければ、お前は一生後悔する』
「……はあ!?」
弾は、思わず声を上げた。なんだ、この手紙は。あの、狂った美形か?それとも、チャラ眼鏡か?
だが、その言葉は、弾の心の、一番柔らかい部分を、的確に抉った。
(真夢が、待ってる……?)
罠かもしれない。また、からかわれているだけかもしれない。だが、もし、もしも、本当だったら?
「……一生、後悔する……」
その言葉が、弾の脳裏に、何度も、何度も反響する。彼は、数秒間、そのメモを握りしめたまま、微動だにしなかった。
そして、次の瞬間、彼は、部屋の鍵を掴むと、アパートを飛び出していた。
一方、真夢の部屋のスマートフォンが、非通知の着信を告げた。
「……もしもし?」
いつもなら非通知なんて、出ない。でも、今日は。おそるおそる電話に出ると、受話器の向こうから、聞いたことのない、しかし、どこか安心させるような、穏やかな男性の声が聞こえてきた。
『……突然、ごめんね。君の、友人の一人だとだけ、思って聞いてほしい』
それは、浄が、声色を変えてかけた電話だった。
『今、八波弾くんが、丘の展望台で、君を待っているんだ。どうしても、伝えたいことがあるらしい。でも、彼は不器用だから、自分から電話をかける勇気が出なかったみたいでね。……もしよかったら、行ってあげてくれないかな?』
「えっ!?弾くんが……!?」
真夢は、心臓が跳ね上がるのを感じた。弾くんが、私を?
『ああ。君が来てくれないと、彼は、きっと、朝日が昇るまで、ずっと一人で待ち続けるだろうな』
その言葉が、真夢の最後の躊躇いを、吹き飛ばした。
「……分かりました!すぐ、行きます!」
彼女は、電話を切ると、弾の元へと、全力で駆け出した。
◇
街並みを一望できる、丘の上の展望台。
そこは、まるで、世界から切り離されたかのような、静寂と、美しい光に満ちていた。眼下には、無数の街の灯りが、天の川のようにきらめき、空には、手の届きそうなほどの、満点の星が輝いている。
「……はぁ、はぁ……」
息を切らして、展望台にたどり着いた弾は、その光景に、思わず息を呑んだ。そして、そこに、探していた人物の姿を見つけ、心臓が、大きく、高鳴った。
「……真夢……!」
「……弾くん……」
先に着いていた真夢が、弾の姿を見つけ、驚いたように、しかし、どこか嬉しそうに、その名を呼んだ。
二人は、しばらく、言葉もなく、見つめ合った。
「良かった……ちゃんと来てくれた……、それで、用事って……?」
「え……?お前が、呼んだんじゃ……」
「えっ!?……ううん、弾くんが、私を呼んだって、電話が……」
そこで、二人は、全てを察した。またしても、あの、不思議な二人組の仕業だ。
だが、もう、どうでもよかった。
目の前に、会いたくてたまらなかった人がいる。そして、この、あまりにも完璧すぎる、美しい舞台。
もう、逃げることも、誤魔化すことも、できない。
「……真夢」
先に口を開いたのは、弾だった。その声は、震えていた。だが、そこには、今日一日のどんな時よりも、強い覚悟が宿っていた。
「俺、さっき、資料室で……お前に、言おうとしたことがあるんだ」
弾は、一歩、また一歩と、真夢に近づく。
「明日……俺の誕生日……もし、よかったら……いや、よくなくても、だ。お前と、一緒にいてえんだ」
言葉が、途切れ途切れになる。だが、彼は、決して、目を逸らさなかった。
「明日だけじゃ、ねえ。これからも、ずっと……隣で、お前の顔が見てえ。お前の声が、聞きてえ。……俺は、お前のことが、好きだ、真夢!世界で、一番!」
不器用で、飾り気のない、しかし、彼の魂の全てを込めた、告白。
真夢の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと流れ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。ずっと、ずっと、聞きたかった言葉を、ようやく聞くことができた、喜びの涙だった。
「……っ、私も……!」
真夢の声も、涙で震える。
「私も、弾くんのことが、ずっと、ずっと、好き……!明日のお誕生日も、その次の日も、これから先も、ずっと、ずっと、弾くんの隣にいたいです……!」
弾は、その言葉を聞くと、たまらない、というように、真夢の華奢な体を、力強く、しかし、壊れ物のように優しく、抱きしめた。
「……真夢……!」
「……弾くん……!」
二人は、互いの温もりを確かめるように、固く、固く、抱きし合った。長かった、もどかしい両片想いが、今、この星空の下で、ようやく、一つの愛として、結ばれた瞬間だった。
遠くの木陰から、その光景を、皇紀と浄が見届けていた。
「……フン。ミッション、コンプリートだな。これで、縁は、生まれる」
皇紀の口元に、誰も見たことのない、ほんのかすかな、満足の笑みが浮かぶ。
「やれやれ、本当に手間のかかるパパとママだったけど…ブラボー!最高のハッピーエンドじゃないか!」
浄は、ポケットから取り出したハンカチで、芝居がかって、目元を拭った。
その瞬間、二人の体が、ふわり、と光の粒子となって、 浮遊し始めた。歴史が、正しい軌道に戻ったのだ。
「じゃあ、また向こうで会おうか、皇紀。俺たちの可愛い恋人たちが待ってる」
「……ああ」
二人は、静かに、光の中へと消えていった。
丘の上の二人は、そんな奇跡には、全く気づいていなかった。ただ、互いの存在だけが、世界の全てだった。
やがて、街の教会の鐘が、ゆっくりと、時を告げる。
ゴーン……ゴーン……。
深夜0時。八月八日。弾の、二十一歳の誕生日。
「……弾くん」
抱きしめ合ったまま、真夢が、吐息のような声で、囁いた。
「お誕生日、おめでとう」
弾は、ゆっくりと体を離し、涙で濡れた真夢の顔を、愛おしそうに見つめた。そして、その瞳に宿る、全ての愛情を込めて、ゆっくりと、その顔を近づける。
初めての、本当のキス。
それは、これまでの、どんな出来事も、どんな不安も、全てを洗い流すような、どこまでも、甘く、優しい、誓いのキスだった。
未来からの使者、その実は、未来の義理の息子たちが紡いだ、ちょっぴり不思議で、最高に幸せな、奇跡の物語は、今、本当の始まりを迎えた。

コメントを残す